【総まとめ】2016年の映画たちから学んだこと

どうも、「しのの雑文部屋」管理人のしのでございます。

2016年も今日の一日を残すのみとなりましたが、振り返ってみると、今年は映画業界がとんでもなく賑わった一年でした。

まず思い浮かぶのは、興行収入200億以上をたたき出し堂々の邦画歴代二位、世界でも大評判となり日本を代表するアニメーション映画となった『君の名は。』

クラウドファンディングから始め、様々な苦境を乗り越えて口コミの力で大ヒットし、映画ファンや著名人の「今年ベスト」を総なめにした映画『この世界の片隅に』

ここまでアニメ映画ですが、アニメ映画といえば、そのとてつもない完成度でディズニーの力を改めて示した映画『ズートピア』、山田尚子監督による漫画の映画化作品である『映画 聲の形』も話題でした。個人的に、今年はドラえもんとクレヨンしんちゃんの映画がどちらも当たりの年だったのも印象深いです。こうして見ると、「2016年はアニメ映画の年」と言っても過言ではないかもしれません。

とはいえ、アニメ映画以外にもアツい作品はいくつもありました。何よりまずは庵野総監督主導で「好きに」製作され、結果特撮ファンだけでなく一般層をも巻き込んで大ヒットした『シン・ゴジラ』。アメコミ界隈はMARVELが『シビル・ウォー』、DCが『バットマンvsスーパーマン』で盛り上げました。5年ぶりのハリポタシリーズ『ファンタスティック・ビースト』は再びブームを巻き起こし、そして年末には気概に満ち溢れたSWのスピンオフ映画『ローグ・ワン』が公開され、2016年は最後の最後まで盛り上がりました。まだまだ書ききれないほど良質な映画がたくさん公開されましたが、それだけで一記事になってしまいそうなのでこのへんで。


さて、「2016年の映画たちから学んだこと」と題した本記事、いったい何を書くのかということですが、これは文字通り私が今年公開された映画から「学んだ」ことをダイジェストでまとめてみようというものです。他の映画ファンの方々はほとんどが「ベスト10」「ワースト10」などを決めて盛り上がっていると思うのですが、当ブログではちょっと違う方向性で攻めてみたいと思います。

「2016年の映画たち」とは銘打っているものの、実際は「(私がブログで取りあげた)2016年の映画たち」です。当ブログは今年の4月に開設されたばかりで、記事で取りあげた今年公開の映画も計13本と少ないので、若干タイトル詐欺感が否めないのですが……。しかし、どの映画も「学ぶ」ことの多いものでした。

そんなひとつひとつの映画のメッセージ、ひとつひとつの記事で私が書いた感想のエッセンスを抽出して、本記事にまとめてみようと思います。従って映画の純粋な感想というよりは、その映画から私が何を感じたか、何を学んだかというところに焦点があります。どれもメジャーな作品ばかりですので、すでにご覧になった作品や興味のある作品の項だけでもチラッと読んでいただければ、今年の良い振り返りになるかと思います。(※本記事でとりあげる映画はたまたま10作品ですが、私のベスト10とは何の関係もないのでご了承ください。)



①『映画ドラえもん 新・のび太の日本誕生』

思えば、この映画からすべてが始まりました。当ブログ最初の記事でとりあげた映画です。

感想記事の副題は「リメイク作品のあるべき姿」となっており、この作品がいかにリメイク作品として優れていたかが分かります。

〈学んだこと〉

・作品内容からは…

1. 帰るべき場所があることのありがたさ

のび太たちの家出から物語が始まる本作。しかし、結局彼らはそれぞれの家に帰り、またいつもの日常を生きていきます。この「帰る」ということがどういうことなのかを、本作は丁寧に描写していました。それは、我々にはそれぞれに帰るべき居場所があるということなのです。そして同時に、それはとても恵まれていることなのです。

2. 連綿とつながる歴史の重要性

ドラえもんは未来の道具で事態を解決していきますが、そんな道具が作られたのも祖先の努力があったからです。本作の悪役・ギガゾンビは、未来の道具を使って過去の人間を支配しようとしますが、彼はなかなか示唆に富む方法でドラえもんたちに敗れます。ここもまたこの映画の味わい深いポイントです。今の我々は、祖先から連綿と繋がる歴史あっての存在なのです。

3. 仲間あっての自立

本作では家出と関連して、ひたすら「自立とは何か」ということが問いかけられました。その問いに対し、この作品が最終的に出した結論は「仲間あっての自立」でした。つまり自立とは、他者に頼れるようになることなのです。そんな頼れる他者、すなわち仲間をどれだけ作ることができるか。その過程で、我々は真に自立していくと言ってもいいのかもしれません。

・メタ視点では…

私が本作から教わったことは「リメイク作品」というものの意義です。旧作の不満点をほぼ解消し、その上内容としてもより深みのあるものに昇華させた本作は、まさに「リメイク作品のあるべき姿」だったのです。この作品を観て私は、「リメイクとは価値の単純再生産ではなく、拡大再生産であるべきだ」と改めて思うようになりました。同じ題材でもう一度やるからには、単純な繰り返しではなくより大きな価値を生み出すべきだ、という当たり前のことなのですが、逆に言えばあらゆるリメイク作品とはそうあるべきだということなのです。

余談になりますが、「居場所」「連綿とつながる歴史」など、今思えば『この世界の片隅に』と共通するメッセージを多く読み取れた作品でもありました。



②『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ』

感想記事の副題は「人間性の違いを克服する物語」となっています。争いには色々ありますが、結局その根本原因は「違う人間だから」ということなのです。

〈学んだこと〉

・作品内容からは…

この作品の根幹はズバリ「争いの構造」です。脚本はかなり練り込まれており、複数の登場人物が様々な思惑を抱えて複雑に動き合う本作ですが、結局は「人間性の違い」というシンプルなテーマに着地しました。

スーパーヒーローだって完全ではない。だからこそ争いが起きてしまう。しかもそれはただ単に「違う人間だから」ということによって……。これは逆に言えば、どんな人間でも争いは避けられないということでもあります。

しかし、本作はあえてその「争い」の部分、「傷を負い合う」部分に最後までフォーカスし続けました。それはこの物語が「争いは避けられない」というどうしようもない事実を受け入れ、ある種肯定した上で、それでも前に進もうとする物語であるということを意味しています。アベンジャーズはきっと帰ってくる。我々も、きっと争いを乗り越えられるのです。

・メタ視点では…

本作を観て一番衝撃的だったのは物語のオチがついていないところです。もっと正確に言えば、物語のオチがついていないということが、ある意味オチになっているということなのです。YESかNOか、解決か未解決か、ハッピーエンドかバッドエンドか……そんな単純な尺度でははかりきれない深みが、あの結末にはあったのです。

2時間という尺で一気に「崩壊」→「再集結」をやってしまうと内容が薄くなることを見越して、あえて「崩壊」の部分を徹底的に描写した、その懐の深さに私はやられました。と同時に、「物語」というものの紡ぎ方にも新たな認識が生まれました。つまり、一つの作品で無理にオチを付けるのでなく、ときには必要な部分を徹底的に描写することも必要であるということ。そして、本当にうまくそれを描くことができれば、たとえ一つの物語として見ても満足できるものになるということです。これは新たな発見でした。

余談ですが、「人間の不完全性」から生じるどうしようもない問題をあえてそのまま受け入れ、ある種肯定した上でそれでも前に進もうとする姿勢は、『映画 聲の形』『何者』などにも通ずるものがあります。



③『ファインディング・ドリー』

本作で初めて1つの作品に対し2つの感想記事を書きました。1つ目はいわゆる「メタ視点」での感想記事、2つ目は純粋な感想記事です。以降、述べるべきことが多い作品に対してはこの手法が取られるようになりました……。

〈学んだこと〉

・作品内容からは…

この映画は「どんなに遠く離れていても届く家族の絆」についての映画でした。また、「世界中の人たちが自分の家族になり得る」というメッセージも込められており、これらを統合してみると、「世界はひとつの絆で結ばれることができるはずだ」というかなり強烈で理想主義的な主張が読み取れます。大人も子供も一緒に楽しむPIXAR映画だからこその、とても純粋で、しかしとても大切なメッセージです。


・メタ視点では…

本作に限らず、PIXAR映画はいつも「大人も子供も楽しめる」ことの大切さを教えてくれます。単純明快で魅力的な世界観・キャラクターを用意しながらも、ときに重い社会的メッセージを含ませ、大人もハッとさせられる要素を入れていく。これは、まさに大人も子供も関係なく物語に引き込むための「装飾」なのです。

年齢に関係なく、映画館の中だけは誰もが等価な観客として扱われ、最終的に彼らは「仲間や家族の大切さ」「あきらめない気持ち」「信頼と勇気」といったいわゆる「王道テーマ」から、もはや大人も子供も関係ない普遍的なメッセージを受け取り共有することができる。これこそが、PIXARやディズニーが目指していることだと思います。「大人も子供も関係なく響くメッセージ」というのは、確かにあるはずなのです。そして、そういったものは得てして人間存在の根本に関わるものであることが多いのです。



④『シン・ゴジラ』

本作でも2つの記事を書きました。1つ目は純粋な感想記事。2つ目はメタ寄りの内容(後述の「トレードオフの問題」)を扱っています。

〈学んだこと〉

・作品内容からは…

「我が国は、人徳による王道を往くべき」という里見の言葉。そして矢口の「これからは、ゴジラと共存していくしかない」という言葉。これらが作品内容を端的に表現しています。ゴジラとは荒ぶる神(シン)であり、そして人間の原罪(sin)でもありました。我々はそんな罪を背負いつつも、人徳によって内なるゴジラを飼いならしていくしかないのです。


・メタ視点では…

今作と『君の名は。』に共通することは、「トレードオフの問題」が指摘できたことでした。『シン・ゴジラ』は我々一般国民の描写、すなわち「ニッポン」の描写が甘く、しかしその成分を多くすると今度は作品の面白さが減少してしまうという、まさに「あちらを立てればこちらが立たず」の状態でした。その板挟みの中で、ちょうどよいバランスをもって作品を整えていかなければならないわけです。

本作のバランスがどうだったかはさておき、観客である我々が気をつけなければならないことは、そういったトレードオフの問題を「認知すること」です。ただただ「面白い!」という感想を持つだけでなく、その「面白さ」をも客観的に見ることが、ときには必要であるということなのです。そのような姿勢を意識することで、我々は与えられた作品をより「吟味する」技術に長けていくと思います。

また、「フィクションのあり方」ということにも触れました。私は「虚構は現実を信じられるようになるための薬」であると述べました。つまり、フィクションを用いるならば、それによって現実を信じられるようになるようなやり方でなければならないと思うのです。



⑤『君の名は。』

『シン・ゴジラ』に続き2つの記事を書いた本作。1つ目は純粋な感想記事。2つ目はこの映画を震災後映画として観ることについて書いています。いわゆるメタ寄りの感想記事です。

〈学んだこと〉

・作品内容からは…

今作の強みは、「運命は自分で切り拓ける」というピュアなメッセージ(あるいは祈り)を、ただただ愚直に描き通したという点にあります。三葉は宮水家の巫女ではありましたが、瀧は普通の男子高校生であり、三葉との入れ替わり対象に選ばれる必然性は作中からあえて排除されています。そんなたまたま選ばれた2人が繰り広げるドラマは、力強い意志と選択の物語です。相手の名を求めるエモーショナルな「想い」こそが、自らの運命をも変えてゆく。この、ともすればチープで現実味のないものに感じられてしまうような純粋な「願い」を、過剰とも思える音楽やテンポ、感情操作で観客をグイグイ引きつけることによって、説得力あるものとして見せることに成功しています。この計算は見事でした。


・メタ視点からは…

本作はまさに「メタ」の視点から学ぶことが多い作品でした。

あの純粋な物語の裏には、「とにかくこれを描きたい!」という作り手の「純粋な」想いがあったのです。作り手の姿勢は、作品の性格に如実に反映されるということです。『君の名は。』の場合、まず「若い男女の純粋な『想い』の物語を描きたい」という動機が先にあり、「彗星が降るというシチュエーションを描きたい」という目的が先にありました。作品世界のすべてを主人公2人のドラマに奉仕させる「セカイ系」は、そんな作品の性質と非常に相性が良かったわけです。

もちろん、問題もありました。2人のドラマに災害をも利用する姿勢は、倫理的・道徳的な問題も孕みますし、しかしだからといって変に社会的な物語にすると本来の趣旨からは離れてしまう。『シン・ゴジラ』の時と同様、「トレードオフの問題」です。さらにこれは、『シン・ゴジラ』の記事でも述べた「フィクションのあり方」ということにも関わってきます。しかし、本作の作り手はそういった面倒な問題が立ち現れようと気にせず、ただただ「純粋な」想いを貫き通しました。本作のヒットは、そうした作り手の姿勢の勝利と言えるでしょう。もちろん、その分我々は例の「トレードオフの問題を認知する」技術を磨かなくてはならないのですが。

こうして見ると、この作品の存在そのものが、作中で描かれる「純粋な想いの大切さ」というものを我々に知らしめている気もします。



⑥『スーサイド・スクワッド』

本作の感想記事は100%メタな視点のものでした。

正直言って、私はこの作品の内容そのものはあまり評価していません。しかし、「ではなぜ面白くなかったのか」「どこがまずかったのか」を突き詰めることによって得られるものもあります。だからこそ、私はこの感想記事を書いたのでした。

〈学んだこと〉

・メタ視点では…

内容そのものから得られたものはあまりなかったとはいえ、メタな視点から得られたものはたくさんありました。

まず1つは、「観客の期待や予想を裏切る場合、納得させる方法で行わなければならない」ということ。『スーサイド・スクワッド』の予告編を観ると、どれも観客に「悪人たちが活躍する斬新な作品」を期待させるような作りになっています。しかしながら本作で実際に登場するのは悪人たちではなく、むしろ普通の人生を望みながらも、どこかで歯車を狂わされた「犠牲者たち」でした。悪として描かれるのはむしろ政府の方で、ここに観客の予想や期待を裏切り、善悪判断を揺るがそうとする作り手の狙いが見て取れます。問題は、その「納得のさせ方」が甘かったことです。つまり、「こいつら良い奴らじゃん!」と思わせるべきところを、「こいつら期待してたほど悪い奴らじゃなかったな」と思わせてしまったのです。

2つ目は、「作品のメッセージやテーマを考えることは、決して無駄ではない」ということ。よく「いちいち作品のメッセージやテーマを考えるなんて馬鹿らしい」という言説を目にしますが、これはメッセージやテーマというものを重く受け止めすぎているのでしょう。世の中に、何のモチベーションもなく作られた作品などありません。そこにはかならず「こういう作品をつくれば面白い」という作り手の意図があるはずで、それこそが映画のテーマなのです。そして、そういったテーマを考えることは、すなわち作品の面白さを考えることと同義なのです。これについては記事を読んで頂きたいのですが、『スーサイド・スクワッド』の感想記事自体が奇しくもこの事実の証明文になっていました。



⑦『映画 聲の形』

副題は「コミュニケーションの残虐性と尊さ」。コミュニケーションの残虐性をこれでもかと描写しつつも、山田尚子監督持ち前の「素直さ」で、それらすべてを温かく包み込んでくれる作品です。

〈学んだこと〉

・作品内容からは…

本作もまた、『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ』と同じく、「人間の不完全性」から生じるどうしようもない問題についての作品でした。キモは「人間は本質的に、自分の頭でしか物事を考えられない」ということです。本作で描かれるディスコミュニケーションは、すべてその「不完全性」のために発生します。コミュニケーションを取ろうとすることによって、逆にいろんなものが崩れていくのです。

しかし、本作が打ち出す答えはシンプルなものでした。それは、「それでもコミュニケーションを取ろうとすること」です。人間の不完全性が顕著に現れ出るのがコミュニケーションならば、その不完全性を補完し合えるのもコミュニケーションによってなのです。



⑧『何者』

副題は「君が君でしかないことの素晴らしさ」。『映画 聲の形』に引き続き生々しくてキツい内容ですが、希望に満ち溢れた着地をする点では同じです。

〈学んだこと〉

・作品内容からは…

これまで「人間の不完全性」に焦点を当てた作品はいくつかありましたが、本作は「不完全性」そのものを追求していきます。就活を通して自分で自分がわからなくなっていく若者たちのドラマが提示するのは、「我々は生まれながらにして不完全である」というごく当たり前の事実でした。「とにかく自分じゃない誰かになれる場所がほしい」と奔走する若者たち。しかし、そんな場所はもとから存在しない。「完全な自分」などもとから存在しないのです。むしろ、どれだけ足掻いても、あなたはあなたであることをやめられないのです。

これは永久の呪いであるかのように思えます。しかし、同時に永久の希望でもあるのです。なぜならば、「自分が自分であることをやめられない」ということは、我々は生まれながにして、すでに「何者か」になっていたということだからです。この映画が我々に教えてくれること、それは「完全な自分など幻想なのだ」という絶望ではなく、むしろその幻想を追い続け、もがき続けているまさにそのときこそ、我々が我々である瞬間なのだという、希望に満ち溢れたエールなのです。


・メタ視点では…

本作を観て感心したのは、ラストシーンにおけるある演出です。それはまさに「映画的表現方法」でした。この映画は小説を原作としてつくられた作品ですが、このシーンの存在によって、映画化の意義は何倍にも膨らんだと思います。それはつまり、媒体の違いを活かした表現をしたということで、例えば漫画や小説の映画化や、あるいはその逆にしても、そうした作品展開の意義はほぼ全てそこにあると思います。これは曲の歌詞解釈の記事でも常々私が述べていることですが、作品がその表現形式をとることには、必然性がなければならないのです。



⑨『この世界の片隅に』

記事は2つ。1つ目は純粋な感想記事。2つ目は本作の内容を援用して「我々はなぜ生きるのか」という永久の問題に挑んだ論文チックな記事です。いずれにせよ、多くのことを教えてくれた作品です。

余談ですが、1つ目の記事は今年当ブログで最も読まれた記事です。

〈学んだこと〉

・作品内容からは…

本作から学んだことは、2つ目の記事に集約されています。

1つ目の記事で書きましたが、本作が見せてくれるのは「どんなに絶望的な状況にあっても、それでも生きようともがく人間の美しい姿」です。「この世界の片隅」で営まれてきた人々の暮らし、連綿と繋がる命の連鎖こそが今の我々を生かし、そして未来をつくってゆくのです。

本作は戦争映画です。しかし、ラストシーンで打ち出されるメッセージは、もはや戦争映画を超えた普遍的なものです。それは、「誰かが誰かの居場所になること」。生きている限り、我々はこの世界の片隅に自分の居場所を見つけることができ、同時に自分も誰かの居場所になることができる。互いに互いの居場所になることこそが、我々の生の本質なのです。



⑩『ローグ・ワン』

これは非常に評価が難しい作品でした。本作はSWのスピンオフなのですが、「スピンオフとは何か」「シリーズものとは何か」ということを改めて考える良い機会になりました。

〈学んだこと〉

・メタ視点では…

本作の評価が難しいのは、観点によって評価が著しく変わってしまうからです。単体の映画として観るか、スピンオフとして観るか…。もちろん、この作品は紛れもなくスピンオフなのですから、単体の映画として評価することはそもそも不正解であるとも言えるでしょう。しかし、ここで私が改めて声を大にして申し上げておきたいのは、例えどんなに伝説的なシリーズの作品であろうと、そこには単体の映画として「も」評価できるものがなければならないということです。でなければ作品の「力強さ」が失われます。莫大な費用と時間をかけて制作するからには、「ファンのための映画」以上のなにかを含んでいるべきだと考えるのです。



以上、10作品を記事とともに振り返りました。かなり長い文章になってしまいましたが、裏を返せばたった10作品でもこれだけ得るものがあるということです。皆さんにはぜひ来年も楽しい映画ライフを送るとともに、いろんな感想を共有して、私にいろんなことを教えて頂ければと願うばかりです。

私事ですが、当ブログは今年の4月に開設され、2016年12月31日の現時点でこの記事含め計25記事が更新されました。開設からまだ1年すら経っておらず、また更新頻度もあまり高くないのに、アクセス統計を見てみると今年は延べ数万人の方に記事を読んでいただいたようで、本当に嬉しい限りです。ありがとうございます。

Twitter等でいつも感想を寄せてくださる皆さん、当ブログの記事を紹介してくださった皆さん、ラジオに呼んでくださった映画友達など、皆さん本当にありがとうございました。おかげさまで、今年はいろいろな体験をすることができました。来年は、記事が質・量ともに今年以上のものになるよう頑張っていきたいと思います。


2017年も

映画に、音楽に、おもちゃに幸あれ!

すべての人の趣味に幸あれ!

それを愛する皆さんに幸あれ!


それではよいお年を!



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