『仮面ライダーアマゾンズ』SEASON1を振り返る

とうとう13話まで配信されました、『仮面ライダーアマゾンズ』。

視聴した皆さんは、さぞかし頭の中をかき回されたことでしょう。最終回を見終わったあとのあのなんとも言えない感じ。後味が悪いようで、一応物語が落ち着いた感じもあるというか......。あるいは何も解決していないようで、何かが決定的に明確になったような......。

このモヤモヤは何でしょう? なぜ我々はこんなにもこの物語に惹きつけられ、またかき乱されたのでしょう? この物語が我々に提示したものは何だったのでしょう?

今回の記事では、(私も含め)この物語にいったん整理をつけたいという人のために、これらの疑問について考えていきたいと思います。



はじめに結論から

議論の見通しをよくするために結論を先に書きます。


この物語の主題は

「生きるとはどういうことか」「善悪・敵味方とは何か」

ということである。


そしてそれぞれに対するこの物語の答えは

「生きるとは、他種族を喰らうという残虐な側面を持つ」

「善悪とは、常に『誰かにとっての』善悪であり、敵味方とは、常に『誰かにとっての』敵味方である」

というものである。


以上です。



本論

悠の戦う理由

議論が散漫にならないように、主人公である悠にフォーカスを当てて考えていきます。

彼は、もともと「水槽の中の魚」でした。食べるものもおよそ人間らしいもの(もっと言えば、生物らしいもの)ではなく、七羽も言うように「養殖」だった。つまり、彼の義母である水澤本部長に「飼われて」いたわけです。

物語は進み、彼の中のアマゾンとしての本能が目を覚まします。そして彼にとって最大の疑問に突き当たります。すなわちそれは「自分(アマゾン)は人間か」この問題が、今後の物語の軸となっていきます。

悠はこの問題の答えを、駆除班の一員として戦う中で見つけようとします。そしてまず自分の戦闘理由を問うことになります。彼の導き出した答えは、「アマゾンも人間も関係なく、自分の守りたいものを守るために戦う」というものでした。

実際、悠はこのスタンスを最終話まで貫き通します。7,8話では、暴走したアマゾンの人間態を見て狩り逃す(そのために死人を出す)、逆に人間であろうと仲間を傷つける者は平気で襲おうとするなど、一見「悠ブレブレじゃねえか」ということになるのですが、実は一切ブレていません。「アマゾンも人間も関係なく、自分の守りたいものを守るために戦う」という彼の信念に従っているだけなのです(こう書くと、彼は仁のように理性的に戦う相手を選別しているようですが、実際は本能的な選別であると思われます)。仁はそんな彼を見て「守るもんと守らないもんと、お前の都合で選り好みしてんだよ。自分の中で線引きができてない。だからフラフラすんだ。」と言い放ちますが、これは仁と悠が原理的に分かり合えないことを示す象徴的なセリフでしょう。最終回で悠は「今ではそれ(守りたいものを守る)が、僕の戦う線引きです」と言っています。つまり、仁からしてみれは「自分が守りたいかそうでないか」というのは線引きではなく、ただの利己的で傲慢な態度であり、悠に言わせれば、それこそがまさしく彼の信念であり、線引きなわけです。これでは水掛け論です。


悠に対するアンチテーゼたち

ブレブレに見える悠に対して、彼の周りの人間は確固たる「線引き」を持っています。仁は言うまでもなく「アマゾンか人間か」、駆除班の面々は「カネになるかならないか」、マモルは「チーム(とハンバーガー)のためになるかどうか」。水澤本部長についてははっきり描写されませんが、仁と同じような線引きでしょう。ただし彼女の場合、「悠は保護するに値する」としている点が決定的に仁と違います。

注目すべきは、彼らの線引き(すなわち行動規範や倫理観)がことごとく崩壊していくということです。

駆除班の面々は、最終回でマモルを仁から守りました。中でも三崎に関して言えば、彼は自らの左手を喰った相手を守ろうとしたのです。ここではもはや「カネになるかならないか」という線引きは崩壊しています。そもそもその線引きは「アマゾン狩り」という仕事の正当性を生み出すため、自分たちに「課した」ものだったので、実は崩壊するのも当然でした。結局最終回で彼らは「自分の守りたいものを守るために戦」ってしまったわけです。

仁はどうでしょうか。彼はもはや最初から破綻しています。その一番決定的な証拠が七羽の存在です。「アマゾンならどんなに良い奴でも倒す、人間ならどんなに悪い奴でも守る」という彼の線引きは、逆に言えば「アマゾンにも良い奴はいる」「人間にも悪い奴はいる」ということを前提としていることになります。事実、アマゾンが全て忌むべき存在ならば、アマゾンでありしかも腕輪もしていない自分のそばに七羽を置くはずがありません。彼にとって七羽は唯一自分が人間に戻れる場所だったわけです。また、最終回で彼はアマゾンを根っから恨んでいるわけではなく、むしろ生みの親としての愛着すらあるということを明かしました。つまり、彼の線引きの背景にあるのは、他でもない人間至上主義だったわけです。どんなに良い奴でも、アマゾンは本能的・絶対的に人間と共存できない。従って自分が責任をもって絶滅させるしか無い、という一種の妥協であり、諦めなのです。

マモルはどうでしょう。彼は、自分が最も大事にしていた「チーム」のメンバーの左手を喰ってしまいました。しかもそれは自分が生きるためにやむを得ない行為だったわけで、事実彼も「おいしかった」と言っています。ここに我々は「アマゾンと人間の本能的・絶対的共存不可能性」を見ることができます。捕食−被食関係にある者同士は共存できるのか。こう考えると、「人間と牛は共存できてるじゃないか」などと反例じみたものを思いつけますが、それは人間が捕食側である場合のみであって、この物語において人間は被食側なのです。人間が被食側にまわったとき、相手の生物と共存できるのでしょうか?恐らく多くの人々が首を横に振るのではないでしょうか。ただしここで注意すべきは、彼の線引きは完全には崩壊していないということです。SEASON2で彼がどのように動くのか不明ですが、少なくとも現時点では、「人間を喰いつつもチームのメンバーを守る」という選択がありえます。どちらにせよ、彼の線引きを維持するには、人間が被食側にまわることを前提としなければなりません。だからこそ、悠はマモルに「人間を食べてもいいよ」と言うのです。

では最後に、水澤本部長の線引きについてです。彼女は仁のように自分の命をかけたり、自ら手を下したりしていないだけで、発想は仁と似ています。トラロックを計画するくらいですから、悠を除くアマゾンは全滅すべきと考えているわけです。ただ、仁やマモルといったアマゾンに対してどう考えているかの描写が少ないので、彼らについてはなんとも言えませんが、少なくとも駆除対象には指定していません。ここにやはり論理破綻を見ることができます。悠は第三のアマゾンだと言っているので論外とはいえ、仁やマモルを駆除対象に指定していない時点で、やはり「アマゾンにも良い奴はいる」ということを認めていることになります。仁はアマゾンを全滅させたあと自らも死ぬので放っていて、マモルは駆除班の一員なので駆除対象としていないという説明もできますが、そうしたところで破綻していることに変わりはありません。結局彼女も仁と同じく、人間至上主義による妥協をしていることになります。


線引きと善悪

以上のように考えると、この物語において、究極的な思想は2つしか残らないことになります。悠、マモル、駆除班たちのように「アマゾンも人間も関係なく、自分の守りたいものを守る」という言わば内面主義か、あるいは、仁、水澤本部長のように「アマゾンは人間のために滅ぶべき」とする外見主義です。内面主義・外見主義というのは、私が分かりやすいようにつくった造語ですが、前者は「ある者が敵か味方かは、その者の生態的・生物的な別などによってではなく、内面を吟味することによって判断する」という考え方で、後者は「ある者が敵か味方かは、その者がどのような種族に属しているかなどの形式的要因によってのみ判断する」という考え方を意味します。

ここで思い出して欲しいのが、「善悪とは、常に『誰かにとっての』善悪であり、敵味方とは、常に『誰かにとっての』敵味方である」というあの結論です。同じ人間同士でも、何を善として、誰を敵とするかは異なってきます。ましてや種が違えば......と考えると、実は普段我々の持つ倫理観も、相対的なものにすぎないことがわかります。人間を喰う奴らなんて敵に決まってる!という考えは真っ当ですが、あくまで「人間にとっての」真っ当であることは認めなくてはならない。それが正しいとか正しくないとかではなく、そもそもそういう構造の中に立っているんだということです。外見主義なんて言うと聞こえは悪いですが、仁の言う「人間を守るために」というのはある意味ヒーローの典型的なあり方です。しかしそのセリフを言う彼はどことなく悪役じみている気がしてしまう。これは何でしょう?何が起こっているのでしょう?私が思うのは、彼の顔が悪役のそれに見えたその時こそ、我々の倫理観の「隠れた相対性」が無意識的に浮き彫りになった瞬間なのではないかということです。

悠は人間か

しつこいようですが、結局この物語で悠が獲得した「線引き」は、「アマゾンも人間も関係なく、自分の守りたいものを守るために戦う」というものでした。ここから自ずと彼が人間であるかどうかの答えが導かれます。言ってしまえば、「何のために戦うのか」を決定することは、「誰を敵として誰を味方とするのか」を決定することであり、それはつまり「自分が何者なのか」を自動的に規定することになるからです。

結論を言えば、「悠はアマゾンでもあり、人間でもある」ということになります。彼は覚醒の運命から逃れられず、いつか人を食わざるを得なくなるかもしれません。ここは人間と決定的に違います。そういう意味で彼はアマゾンなのですが、一方で人間を敵対視しているわけでもありません。「守りたいものを守る」わけですから、ある意味悠はアマゾンと人間の間を自由に行き来できる存在といえます。

つまり、悠は「人間」か「アマゾン」かというカテゴライズができないのです。言ってしまえば、その時その時の自分の考え方(つまり内面)で、アマゾンにもなるし、人間にもなる。これは、相対的なものとしての「善悪」に徹底的に反抗した生き方であると言えましょう。「善悪」という言葉に常に「誰かにとっての」という枕詞がつくなら、自分そのものがポジションを自在に変化させることで、真に自分の信じる善を突き進み、「絶対的な善悪」を確立してしまえというスタンスです。反対に、仁は相対的な「善悪」を全面的に受け入れています。善悪が相対的なものなのは仕方ないのだから、せめて自分は一貫して「人間にとっての善悪」を突き詰めようというスタンスです。

このように考えると、『アマゾンズ』という物語には、「相対的なものとしての善悪にどう立ち向かうか」という大きな倫理的・哲学的主題があることが分かるでしょう。

アマゾンが示す「生の残虐性」

こう考えると、「人喰い細胞」という設定は非常に巧みであったと言えます。なぜならば、これによって「生きるとは何か」「善悪とは何か」という問題に対する究極的な例を生み出すことができるかです。

例えば、「善悪は相対的なものである」という例を、我々はいくつか知っています。アメリカ対ロシアの冷戦構造や、9.11事件など、歴史的な事例にもこのことは確認できますし、日常生活でも意識できるのではないかと思われます。

しかしながら、「捕食-被食関係における善悪」というのは、生物として最も根本的で、善悪関係を最もシンプルかつ明確に可視化することができるものではないでしょうか。なぜなら、「食べる」ということは、「生きる」ことに最も深く関わることだからです。誰かが誰かを食べた。でもそこに絶対的善悪は存在しません。だって生きるためにやったことなんだから。ライオンがシマウマを食べたからといって、ライオンが悪になるでしょうか?なるとしたら「シマウマにとっての」悪であるはずです。

この作品内で「食われる前に食え」だの、「生きるってことは、誰かの命を喰らうことだ」だのと、やたらと「生」と「食」の関連性が強調されるのはそのためです。「生きるとは、他種族を喰らうという残虐な側面を持つ」わけです。しかもそこに絶対的善悪が存在しないとなれば、これは我々に「生きるとは何か」「善悪とは何か」ということを考えさせるのにうってつけのシチュエーションでしょう。

そういう意味では、アマゾンシグマはこの物語にとって、あってはならない存在と言えるでしょう。彼は死者であり、従って「食う必要が無い」のです。会長もアマゾンシグマを一蹴します、「物食わぬ生命体など、最弱にして下劣!」と。


第三の選択肢

ここで注目してみたいのはマモルです。というのも、彼は内面主義派の中で唯一人間を食った人物だからです。

彼に残された道はいくつかあります。一つ目は、アマゾンとして人間と完全に決別して生きる道。二つ目は、人間として人食欲望を抑えながらこれまで通り生きていく道。そして三つ目は、人間を食らいながらも人間と共に生きる道です。

一つ目と二つ目の道は、モロに外見主義的な道です。言い換えれば、相対的善悪を受け入れた姿勢です。一方三つ目の道は、内面主義の道です。彼が「チームの仲間と」「生きていく」ためには、三つ目の道を選ぶ他ありません(ただし、ここではアマゾンとして覚醒後は人食欲望を抑えられないという前提で議論しています)。なぜならば、「チームの仲間と」というのは人間との共存を表し、一方「生きていく」ということは「他種族(つまり人間)の命を喰らうこと」だからです。しかしながら、前述のとおり第三の選択肢は、人間が被食側にまわることを必要としています。このために内面主義者の悠は「人間を食べてもいいよ」とマモルに言ったわけですが、さて、みなさんはどう考えるでしょうか。


議論の前提

実は、これまでの議論は「アマゾンは、覚醒後(腕輪が赤になったあと)は人食欲望を抑えられない」という前提がないと成り立ちません。実際、この前提はほぼ正しいと思いますが、ちょっと不審な点があります。例えば仁ですが、彼は腕輪をしていないのに人食欲望を抑えられています。これはいささか疑問です。好意的に解釈するならば、彼はもともと人間であり、後天的にアマゾンになった存在なので、純粋なアマゾンとは勝手が違うととれます。事実、彼は他のアマゾンに比べ、アマゾン感知能力が低いなど、どこか他のアマゾンとは能力や生態が異なるフシがあるのですが、こちらとしてはやはりそこを明確にするために、腕輪をさせるか、説明があって欲しかったものです。


この物語の真のメッセージ

冒頭で私は、この物語の主題が「生きるとはどういうことか」「善悪・敵味方とは何か」を示すことにあると述べました。実際、上記のような議論からそれはもっともであるように考えられますし、その答えも提示されていると言えます。しかし、私はさらに大きな真のメッセージというものを感じざるを得ません。それはすなわち「生きるものは誰でも相対的な善悪に立ち向かわざるをえない」ということです。

言ってしまえば、「生きるとはどういうことか」という問いは、あくまで「相対的な善悪」というものを可視化するための舞台装置に過ぎない気がするのです。実際、人喰い細胞という設定によって、捕食−被食という、生において避けて通れない関係が明確に立ち現われ、それを取り巻く物語によって「内面主義か外見主義か」という相対的善悪への姿勢が描かれるようになりました。内面主義も外見主義も、どちらも絶対的に正しいものとしては描かれていません。前者に関しては、例えば利己的で傲慢だという批判がされましたし、またその勝手な判断によって死人が出るというリスクも描かれています(8話)。後者に関しては、自分以外の種族を排除することに繋がる側面が描かれています。これが、我々がこの作品を見終わったあとに煮え切らない、モヤモヤした感覚をおぼえた理由ではないでしょうか。この物語は、何一つ「確かなもの」を示してはくれません。あるとすれば、「善悪に『確かなもの』などない」ということです。あるいは、この物語で唯一「確かに」否定された存在として、アマゾンシグマがあります。これが意味するものは、アマゾンシグマのように何も食わないことで、相対的善悪から自由になることなど「生きている」我々にとってはありえないということです。我々は、生きている以上常に相対的善悪に付きまとわれ、そしてそれに立ち向かう時が必ずやってくるのです。



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